大野原の祭りの始まり
大野原町は、江戸前期、寛永十八年(1641)に讃岐藩主、生駒壱岐守高俊の家臣であった西嶋八兵衛が、井関池の構築に取り組んだことに始まった。この偉業を大野原開墾の祖といわれる近江商人、平田与一左衛門正重、そしてその子与左衛門が完成させ、現在の大野原の基礎が生まれた。
昭和30年2月大野原村、五郷村、萩原村が合併し、さらに同年4月紀伊村の大部分と合併して現在の大野原町が誕生した。
大野原八幡宮(現在の大野原八幡神社)は、寛永二〇年、平田氏が開墾した年に初めて奉ったとされる。古くから、祭礼行事が行われ、江戸中期の大野原八幡神社からお神輿の御旅所である平塚への行列の絵巻物は、今も八幡神社に残っている。ただし、それは太鼓、笛や弦楽器によるものだけで、太鼓台はのっていない。
大野原にどのようにして伝わったか?それは江戸後期に、八幡宮の宮司が、丸亀の山入八幡宮の祭礼を見て、それを大野原に伝えたのが、お祭りの始まりと考えられている。 寛政元年(1789)の「御神事行列入用覚」には、「ちゃうさ太鼓」の記述が見られる。尚、この記述は香川で現存する布団太鼓の最古の記述である。そして、文化三年(1807)には、参台の文字が見られる。
いろはにほへとちりぬるを わかよたれそつねならむ
うゐのおくやまけふこえて あさきゆめみしゑひもせす

金毘羅参拝の流行により、金毘羅街道の通る小山地区周辺は、大 変繁栄した。そのため、その地区の商人や庄屋が、自分の太鼓台を 持ち、小作人達に担がせていたものと考える。
古い順から、「い」から「ほ」まで五台の名称がつけられいた。これは
今も残る、い組、ろ組、は組、ほ印である。
ところが、順番が「へ」に来てから、この習慣はどこも嫌がり風化して しまった。 それはなぜか?理由は、同義の「おなら」、「屁」を連想さ せるものだからといわれている。しかし、このいろは太鼓の権威は強く 、村中の中老連だけで担ぎ、運行のすべてを取り仕切り、目付け役を になっていたのである。そして、祭りで喧嘩などの問題が起こった場合 、仲裁に入り、い組の判断で次年の祭礼不参加を決定していた。い組 の太鼓は、高松地区の油屋を営んでいた庄屋個人の所有で祭りに中 老連に貸していた。
に組は、八兵衛地区の担当であったが、十三塚に売却したため、 欠番となった。
もし、そのまま「いろは組」が続けられていれば、「か組」や「よ印」が存在していたかもしれない。おもしろいものである。
壇尻(だんじり)の謎
現在、大野原八幡氏子中には、下杉林、八兵のだんじりがある。中姫地区の中姫八幡には、赤岡下、花稲地区の三嶋神社には、花稲北のだんじりがある。今分かる範囲では、十三塚、大鞘、河原井(河原井出)、上杉林、下林がだんじりであった。花稲地区では、原がだんじりであった。古文書には、「だん志り」と書かれ、宝永六年(1709)に初めて奉納されたと記録されている。その2年前、宝永四年に和田浜村(豊浜町)の祭礼見物に行って導入を決めたと言う。
つまり太鼓台の伝播より八十年早いのである。このことより昔は、太鼓台よりだんじりの方が権威があり、そして現在でも、どの神社も宮入は、だんじりが先頭である。
また、運行時に唄われる伊勢音頭は、従来西讃方面で唄われるのと、節の取り方、音程も違うので興味深い。
大野原祭りの運行
祭礼は、氏参り、宵祭り、本祭りの3日間である。数年前は、10月18、19、20日で行われていたが、現在は、10月の20日に近い週末となっている。
氏参りでは、八幡神社まで行き、御払いを受け、この3日間の安全と無事運行、奉納できることを祈願する。この宮入の順番は決まっており、下林は一番最後である。豆塚、河原井出、下杉林とは、八幡で会うが、辻などは午前中に御払いを受けている。
宵祭りは、朝早くから町内を巡行し、御花が集められる。昔は、八幡神社で小学生による奉納相撲が行われいる。またこの日の夜に、同じ地区同志で地区内に集まりかき比べが行われる。下組地区は、雇用促進団地の前で集まる。このかき比べにより、地区内の結束を固める。
本祭りは、朝からお神輿の御旅所の平塚を目指し、のらりくらり運行される。それと同じ頃お神輿の行列も八幡神社から平塚を目指している。大野原では年番(壱番)と同時に毎年、順番も変わる。観音寺は、1号中洲、2号本若などと決まっているが、大野原は順繰りの輪番制で変わる。それは、中姫、花稲、萩原、紀伊どこの地区も輪番制であるからおもしろい。
順番通り、平塚を数周して決められた場所に据えられる。そして、14番が据えられた後に、地区対抗のかきくらべが行われる。こう書くと運動会のようだが、みんな真剣である。それが終わったあと、だんじりの一番から、平塚を登り奉納が行われる。
若い衆が輪になって、唄に合わせ、「ほーれんしょー、ほーれんしょー」、「よいよいよいやー、よいやーこりわいせー」と掛け声に合わせ、右回り、左回りになったりする。唄い終わるまで、回りつづける。
この奉納が終わると、次は年番(壱番)の太鼓台の差し上げにより平塚を昇り、奉納がされる。この場合途中で落とすことは神様に失礼にあたるので、皆死ぬ気で頑張っている。
そして、年番の太鼓の奉納が終わると、二番太鼓が差し上げで、平塚の途中まで昇る。これが終わると、天狗に連れられ、3つのお神輿が先頭を行き、それに続き、だんじりの一番、二番、太鼓台の年番、二番と順順に八幡に向け運行される。直接八幡に入るのではなく、小学校前に一度すべて据えられ、その後、辻街道(金毘羅街道)を通り、辻、下木屋、宮ノ下と遠回りして、宮入する。八幡では、だんじりが奉納をし、年番(壱番)の太鼓が差し上げをし、あとの太鼓がこれに続き宮入する。八幡が狭いため、3台入るのが精一杯である。土俵の周りをぐるぐる回り、奉納し、一度宮出し、一同が一斉に並び、2回目入るところは入り、帰る太鼓台は帰るのである。
こうして、長い一日が終わるのである。

この地図はYahoo!地図情報より、転載しております。
意見がありましたら、メールを下さい。